東京地方裁判所 昭和27年(ヨ)474号 判決
債権者 羅玉英
債務者 松本照江
一、主 文
債権者が金十万円の保証を立てることを条件として次のように定める。
別紙目録<省略>記載の建物に対する債務者の占有を解いて、債権者の委任する東京地方裁判所執行吏にその保管を命ずる、執行吏は現状を変更しないことを条件として債権者に対し使用することを許さなければならない。
右執行吏はその保管に係ることを公示すべく、債権者はその占有を他に移転し又は占有名義を変更してはならない。
訴訟費用は債務者の負担とする。
二、事 実
債権者代理人は「債務者は別紙目録記載の建物に於て飲食店の営業を為してはならない。右建物を執行吏の保管に移し、債権者にその使用を許す」との判決を求め、その理由として次のように述べた。
別紙目録記載の建物(以下本件建物という)は新宿駅西口のマーケツトの一部であつて、終戦直後安田朝信が東京都から敷地を借受け、仮設建設物として建設賃貸していたものであるが、同人は昭和二十三年九月十一日これを影山義高に譲渡し、同人は更に同二十五年二月二十三日これを川原有光に譲渡し、債権者が同二十六年三月初旬これを右川原から代金八十万円で冷蔵庫その他家具什器等有姿のまま譲受けたものである。その頃債権者と同郷で資産家の両親が台湾にいる陳仙才が本件建物で飲食店を営業したい、ついては本件建物を将来買受けたいが郷里から送金を受けるまで一時使用させてくれと申出たので、債権者は期間を三ケ月と定め本件建物及び造作ならびに冷蔵庫食卓食器その他一切の什器を天どん寿司の営業に使用することを許したのである。然るに陳仙才は郷里から送金を受けられないで三ケ月の期間を経過してしまつたので、債権者は屡々本件建物什器の返還を求めたところ陳仙才は昭和二十七年一月二十八日本件建物から退去して姿を晦してしまつた。そこで債権者は自ら本件建物を使用せんとしたところ債務者は本件建物の所有者であると詐称して何らの権原なく右建物を占有し飲食店業を営んでいる。よつて債権者は債務者に対し本件建物明渡の請求権を有するところ本件建物は前記の如く仮設建築物でその敷地も終戦直後東京都から要求があれば何時でも取払う約束の下に借受けたもので且緑地帯指定地に属しているので頭初から行政命令によつて何時でも取払われることになつていたが、既に新宿駅ならびに東京都都市計画によつて今年(昭和二十七年)一杯で取毀されることになつているので、このまま債務者に営業を許し本案訴訟の判決確定の日を待つにおいてはその間に建物は取除かれて債権者はこれを利用する機会を喪失して莫大な損害を蒙るに至る。よつて申請趣旨通りの仮処分を申請したのである。
債務者代理人は、「債権者の本件仮処分申請を却下する」との判決を求め、答弁として次のように述べた。
一、債権者の主張事実中陳仙才が東京に居なくなつたこと本件建物に於ける飲食店の営業名義人が債務者であることは認めるがその余はすべて争う。本件建物は債権者が買受けたのではなく、昭和二十六年二月債務者の内縁の夫である陳砂が川原有光から八十二万円で買受けたものである。その際造作家具器具類の購入費が不足していたため陳仙才の仲介で債権者の夫羅錦郷から金七十五万円を月八分の利息で期限の定めなく借受けその担保として本件建物を提供することを求められたので右川原より家屋譲渡証を債権者名宛として羅錦郷に交付した。その後月六万円宛利息として提供し債権者も昭和二十七年一月まで異議なく受領していたが、突然同月末頃陳仙才が九州方面に行くや右七十五万円と同人に対する債権を合せて百四十五万円を即時支払え、然らざれば本件建物を明渡せと債務者に迫つて来たが債務者は七十五万円の支払義務はあるからこれ丈支払うと答えたところ債権者は承諾せず暴力で債務者の本件店舗を奪取せんとしたので債務者は営業の妨害をなすべからずという仮処分を得て(昭和二七年(ヨ)第三二五号)これを執行したのである。
二、本件仮処分の必要性がない。即ち、債務者は夫陳砂と子供二人の家族と本件店舗の数名の店員との生活をこの店舗の営業によつて維持しているので、本件店舗を失えば忽ち十人余の者が路頭に迷う結果になる。その反面債権者の夫羅錦郷は多くの会社に干係し、在日中国人間で屈指の財産家であつて本業の医師の仕事はやらなくても生活は維持され、堂々たる邸宅二戸を構え知名な人であるから、その配偶者である債権者が今更マーケツトで飲食店を経営するということは実際問題としては考えられないものである。即ち債権者において本件建物を自ら使用することの必要はない。而も本件マーケツトの立退きについては未だ当局より正式な申出を受けていない。仮りに建物除去命令が出るとすればその換地が与えられるであろうから建物撤廃によつて総てを失い償うことができない損失が生ずるとは言えない。
三、尚本件申請は昭和二十七年(ヨ)第三二五号の仮処分に抵触するから違法である。債務者は前記の如く昭和二十七年一月三十日債権者の夫羅錦郷に対し建物の占有並びに営業を妨害してはならないという仮処分の申請をなし同日東京地方裁判所はその仮処分の決定をなし同日その執行をなしたのであるが、債務者としては金七十五万円を借りたのは右羅錦郷よりであると思つて同人を相手として仮処分の申請をなしたのである。本件建物に関して権利を主張するものは羅錦郷であり、債権者は単に名義人に過ぎないのであるから既に羅錦郷に対して前記仮処分がなされている以上これと全く逆の本件仮処分の申請は許されない。
<立証省略>
三、理 由
本件建物を債務者が占有して飲食店営業中であることは当事者間に争がない。成立に争のない甲第一号証の一ないし三、同第二号証、証人羅錦郷、松沼浩の各証言、証人羅錦郷の証言により一応成立を認めうる甲第三、第四号証を綜合すれば、本件建物が債権者主張の如く安田朝信によつて建設されその後影山義高、川原有光の所有を経て昭和二十六年三月七日八十万円で右川原から債権者が買受けたこと、その事情は債権者の夫羅錦郷が同郷の陳仙才より店舗を持つて飲食店を経営したいから金を貸して貰いたい、と依頼された際店舗の代金は一旦右羅において支払いこれを債権者の所有名義としたのであること。しかして右店舗即ち本件建物を三ケ月の期間陳仙才が管理し飲食店営業をはじめ、右期間内に陳仙才が羅錦郷に店舗の代金を返済すれば本件建物を陳仙才の所有とするがもし返済出来ないときは建物を債権者に明渡す旨を約したこと、陳仙才は遂に金を調達することができず建物を明渡す旨債権者に言明して昭和二十七年一月二十八日退去してしまつたこと、以上のことを窺うに足るのである。債務者は本件建物は昭和二十六年二月債務者の内縁の夫陳砂が川原有光より金八十二万円で買受けたものであると主張し、証人陳砂もそのような証言をしているが、前示各証拠と対比して考えれば到底信を措き難く、他に右の認定を覆し、本件建物が陳砂の所有物件であるという債務者の主張事実を疏明するに足るだけの資料はない。従つて他に債務者が本件建物を占有使用しうべき権原を有するという主張も疏明もない限り、債権者は債務者に対し本件建物の明渡を請求する権利ありと認むべく、ただ問題は本件建物の明渡の本案判決の確定をまたず債権者に本件建物を使用させ債権者に一時の満足を与える申請趣旨の如き仮処分の必要性ありや否やの点である。よつて次にこの点の判断をする。
前にあげた疏明資料によれば、債権者主張の如く本件建物は東京都より借りた敷地に建設された仮設建築物であり、且敷地は緑地帯指定地に属するところから行政庁の命令により何時でも取毀されることになつていたところ、東京都の命令により昭和二十七年三月頃附近建物と共に取毀されることとなり、業者は同年六月まで延期を陳情中であるが、早晩取毀されるもので現在より約一ケ年後は使用不可能の予測がなされる状況にあることが一応認められる。右の事実によると債務者主張のように取毀しに対し何らか補償の方法があるという疏明もない本件にあつては、本案判決の確定を待つていてはたとえこれに勝訴しても債権者は本件建物利用の機会を失うという急迫した事情にあることが窺える。しかして本件建物の位置環境よりして右建物の利用価値は極めて大であることは明白で従つて債務者に使用を許したまま本案判決の確定を待つておいては債権者に回復し得ない著しい損害を蒙らしめるものと考えざるを得ない。債権者の夫羅錦郷が相当の資力を有することは疏明ありとなし得るがこれをもつて債権者が、本件建物の所有権を行使することができなくなることを耐えしめうるとなすに足らぬ。よつて債権者が前記の著しい損害を避けるため、債権者に対し本件建物の使用を許可し一時の満足を与える仮処分の必要あるものと為さざるを得ない。
尚本件仮処分の申請が東京地方裁判所昭和二十七年(ヨ)第三二五号仮処分決定に抵触するから許されないとの債務者の主張について考えるに、本件仮処分と右仮処分はその当事者を異にしているのであつて何ら矛盾するところはないと謂うべく、債務者の右主張も亦採用の限りでない。
本件仮処分の申請の趣旨によれば、債権者は本件建物に於て債務者が営業を行うことを禁ずる不作為命令をも求めているが、主文の如きもので仮処分の目的を達し得るものと認められるのでこの限りに於て債権者に対して金十万円の保証を立てることを条件として、本件申請を正当として認容すべきである。
よつて訴訟費用の負担について民事訴訟法第八十九条を適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 谷口茂栄 安岡満彦 丸山武夫)